フェレンツ・プスカシュ
(Puskas Ferenc)
1927年04月02日
1950年代最強と言われたハンガリー代表、マジックマジャールと言われたその軍団は、4年にわたって、無敗の軍団で居続けた。そのマジックマジャールのキャプテンにしてエースに君臨していたのが「走る少佐(Gallopping
Major)」と呼ばれたフェレンツ・プスカシュである。
体格が恵まれていたわけでも、スピードが凄いわけでもなかったが、そのテクニック溢れるパワフルな左足は、世界最高の選手として君臨し続けるのに充分すぎた。
1950年6月のポーランドとの親善試合から、1954年のスイスワールドカップ準決勝まで、32戦して28勝4分け無敗、1試合当たりの得点は4.5点、全ての数値が桁違い、その四年の間で、ヘルシンキオリンピック優勝、1953年11月にはロンドンのウェンブレースタジアムでイングランド代表を6−3で破る快挙(イングランド代表が英国四協会とアイルランド以外のチームにホームで初めて敗戦した試合)等々、1954年スイスワールドカップ決勝戦のドイツ戦という最も大事な試合で敗れたことにより、そのマジックマジャールの無敗記録がとぎれてしまうのだが、その強さは、サッカーの世界でも永遠に語り継がれる事だろう。
スイスワールドカップでは、いくつかの不条理な出来事があり、それが影響していると言われている。
一つ目は、キャプテンのプスカシュは、予選リーグ第2戦でも対戦した西ドイツ戦でファウルまがいのタックルを受けて負傷しており、決勝トーナメントの準々決勝および準決勝は欠場せざるを得ない状況だった。決勝戦には復帰したものの、本調子ではなかった。
二つ目が、ハンガリーは準々決勝でブラジルと対戦したが、豪雨の中で行われたこの試合は、後世「ベルンの戦闘」と呼ばれる、乱闘による退場者とケガ人が続出する荒れた試合となった。試合後、更衣室に戻っても乱闘は続き、試合には欠場したプスカシュもそちらには参加していたと言われる。続く準決勝のウルグアイ戦も雨の中での延長戦となり、選手たちは満身創痍の状態となっていた。
最後が、決勝戦でプスカシュのゴールがオフサイドによって、取り消された。決勝戦を裁いたのはイングランド人の審判であり、直前の対イングランド戦の2回の勝利でイングランドのプライドを打ち砕いていたことがその判定に影響したのではないかとも憶測されている。
その後、ハンガリー動乱によって、プスカシュはコチシュ等と共に、スペインに亡命するが、ハンガリー本国の圧力により、2年間の出場停止が下ってしまう、30歳で出場停止が解け、レアル・マドリードに入団すると、アルフレッド・ディ・ステファノと共に第一次黄金時代を築き、レアル・マドリードのチャンピオンズカップ五連覇に貢献している。
ハンガリー代表通算85試合出場、84得点(ハンガリー代表歴代最多得点記録)で、イランのアリ・ダエイに抜かれるが、プスカシュが29歳までの記録を考えると、脅威と言うしかない、余談だが、プスカシュの同胞であるサンドール・コチシュは68試合で75得点とこれまた凄まじい記録を保持している。
エピソードして、冷戦終結後、プスカシュは故郷ハンガリーを訪れた。国を捨てた者として石のつぶてを覚悟していた彼を待っていたのは、国民的英雄の帰還を祝う熱狂的な歓迎だったという暖かいエピソードを持っている。
2005年現在、アルツハイマー病に侵され、寝たきりの状態に陥っている。
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